 【 歌劇「アレコ」】
ラフマニノフ,セルゲイ・ヴァシリエヴィチ 〔露〕 (1873.04.01〜1943.03.28) 70歳 癌

ラフマニノフと同時代のロシアには、急進的手法を 追求したスクリャービンや、アカデミズムな傾向の強い グラズノフがいたが、彼はあくまでも保守的な一線を 固守し、チャイコフスキーの伝統への復帰こそ、 ロシアの音楽の正しい道であると考えていた。
彼は、叙情性とセンチメンタリズムを特徴とする、 チャイコフスキーの伝統を受け継ぐ モスクワ学派の1人にあげられる。
1幕の歌劇「アレコ」は、 モスクワ音楽院の卒業作品 として1892年に作曲し、金メダルを授けられた。
原作はプーシキンの物語詩「ジプシー」で、 ジプシーの娘に惚れた貴族の青年アレコが、若い男と 浮気をした娘とその男を殺してしまう悲劇である。
・ アレコ : 貴族の青年(バリトン) ・ ゼムフィーラ :ジプシーの娘(ソプラノ) ・ 若いジプシー(テノール) ・ 老ジプシー : ゼムフィーラの父(バス) ・ ジプシーの老婆(メゾソプラノ) ・ ジプシーたち(合唱)
この作品は、チャイコフスキーのはたらきけけにより、 作曲の翌年の5月9日にモスクワのボリショイ劇場で 初演されたが、チャイコフスキーはリハーサルだけでなく、 本番では聴衆の喝采を先導した。
ラフマニノフは、後に初演の成功は、 チャイコフスキーの喝采のお陰だったと語っている。
その年の10月にはラフマニノフの指揮でキエフ初演が 行われ、オペラ指揮者としてのデビューとなったが、 そのとき、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクで 交響曲第6番「悲愴」の初演が行われていて、 初演の直前にモスクワでお互いの成功を期して 言葉を交わしたのが、二人の最後の別れとなった。
チャイコフスキーは最後の大作となった、 「悲愴」の初演の9日後に急逝してしまった。
チャイコフスキー(1840.05.07〜1893.11.06)53歳
チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたラフマニノフは、 「アレコ」や「岩 作品7」を称賛されたことを、 生涯誇りとしていて、追悼のために、 「悲しみに三重奏曲 第2番」を作曲した。
これはかつてチャイコフスキーがニコライ・ルビンシティンを 偲んで「ピアノ三重奏曲」を作曲したのに倣ったものである。
【 間奏曲 第2番 Op. 17 】5月10日に掲載
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