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...... 2024年12月16日 の日記 ......
■ 《 ハイリゲンシュタットの遺書 》   [ NO. 2024121601-1 ] sy

【 交響曲 第2番 ニ長調 Op. 36 】

ベートーベン,ルードヴィヒ・ヴァン 〔ドイツ〕
(1770.12.16〜1827.03.26) 56歳



ベートーベンは、254年前の12月16日ごろに
ライン河畔のボンで生まれたとされているが、
17日に洗礼を受けたことしかわかっていない。
オランダ人の家系なので、
名前にヴァン(van)がついている。

祖父は厳格な人格者の宮廷楽長、父ヨハンは
宮廷のテノール歌手だった。
母マリア・マグダレーナは、宮廷の料理番の娘で、
無学ではあったが忍耐強い、善良な人だった。

アルコール依存症の父の収入はほとんどなくて、
強制的な音楽教育を父から受けていた。

ベートーベンが学校に通学したのは11歳までで、
その後は学識と教養あるネーフェに師事した。

14歳のころからオルガン奏者として一家の生計を
助けていたが、母の死後、17歳で一家の主として
酒に溺れた生活不能力者の父に代わって、
幼い二人の弟たちの養育の責務を負うことになった。
父の死は、母の死から5年後のことだった。

1802年にハイリゲンシュタットで完成した
「交響曲第2番」は第4楽章からなり、
第9交響曲を予感させる第1楽章。
旋律の美しさから歌曲に編曲された第2楽章。
第3楽章の「スケルツォ」の名称は交響曲では
初めて使われている。
第4楽章では、一種の「呼びかけ」ともいえる
動機が存分に活躍する長大なものである。

       第1楽章 Adagio molto - Allegro molto
       第2楽章 Larghetto
       第3楽章 Scherzo
       第4楽章 Allegro molto

この曲は青春の輝きに満ちあふれた歓びの
歌であるが、このころは聴覚の異常や、
腸の不調など最も悲惨な時代だった。

「ハイリゲンシュタットの遺書」の日付けは
1802年10月6日となっている。

初演は翌年の春に行なわれ、思わしい出来では
なかったが、ベートーベンが信頼していた批評家の
ロホリッツは、後世に残る曲だろうと書いている。

ベートーベンの死期に際して、ロホリッツに伝記の
作者を以来したが辞退され、実現されなかったため、
資料のほとんどを保管していたシントラーが
最初の伝記を書くこととなった。




(管弦楽)フィルハーモニー管弦楽団
(指揮) オットー・クレンペラー 
       ♪ 私が聴いた音源 ♪





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