 【 イタリア綺想曲 Op. 45 】
チャイコフスキー,ピョトル・イリイチ 〔露〕 (1840.05.07〜1893.11.06) 53歳 コレラ

チャイコフスキーは1879年12月中旬から、 弟のモデストと一緒にイタリアで過ごした。 気候の良い、静かな環境で旧作の加筆改定と 新しい創作に没頭するためだったが、 「永遠の都」は刺激が多過ぎた。
弟は大のイタリア美術礼讃者で、しばしば兄を 名画見物にひっぱりだした。 チャイコフスキーが最も心酔したのはラファエロで、 彼は「絵画のモーツアルト」と呼んだ。 また、ミケランジェロのモーゼスを、 「なんという偉大な作品だろう! 私は何回も何回もその前に立ったが、そのたびごとに 前よりも深い敬意の念を抱いてこれに対した。 これこそ真に最高の天才の創造である」 と誉めたたえている。
こうした美術上の傑作を鑑賞することは、 創作のために良い影響を与えたが、 長いホテル暮らしは快適ではなかった。 同宿の老将軍からは、ピアノの音がうるさいと 抗議をされたり、各国大使夫人たちからは 晩餐会に誘われたり、チェイコフスキーが滞在中と 知ったローマの楽人たちには、敬意を表しに 訪問されたりと、落ち着いた生活が出来なかった。 そのため、彼はすっかり精神的に疲労して 極端な憂鬱症に陥った。
それは、1月の半ばごろのことだったが、そこに 思いもよらない父の永眠を伝える手紙が届いた。 その返信に「手紙を読んで思う存分泣き、 父のために流した涙は、私の憂鬱症を治療する 効き目がありました。私の混迷は雲のように消え、 その代わりに諦めがつきました」と書いている。
その後、「イタリア綺想曲」の草案を着手したが、 完成したのは、ウクライナのカメンカという村に 嫁いでいる妹のアレクサンドラの家に滞在中であった。
1880年12月6日モスクワ音楽協会により、 指揮はルービンシテインで初演され、好評を博した。
ローマで見つけた民謡曲集のいくつかや、滞在中 町で耳にした特徴ある曲節を、そのリズムや旋律の 性格に従って排列し、地方色豊かな管弦楽的色彩を 与えて、雪深い北欧人たちが夢にも憧れている 常夏の南ヨーロッパの、地中海を巡らした国の 風物を連想させる一巻の音の絵巻物としている。
綺想曲=カプリッチオ (気分の流れのままに自由に変化する軽快な器楽曲)

(管弦楽)モスクワ放送交響楽団 (指揮) ウラジーミル・フェドセーエフ ♪ 私が聴いた音源 ♪
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