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...... 2024年12月05日 の日記 ......
■ 《 メヌエットなし 》   [ NO. 2024120502-1 ] sy

【 交響曲 第38番 ニ長調 K. 504「プラハ」】

モーツァルト,ヴォルフガング・アマデウス〔墺〕
(1756.01.27〜1791.12.05) 35歳



モーツァルトが世を去るころは、病気の妻と
子どもをかかえ、貧困のなかにいた。
以前は彼の無心に応じていた友人たちも、度重なる
要求には応じきれず、また貴族たちもただ一人として、
見捨てられた食うや食わずの音楽家など
かえりみようとはしなかった。
そのため、あらゆる貴重品を抵当に入れ、
たえず金貸商に行っていた。

6月に入って、歌劇「魔笛」をほぼ完成し、
保養中の妻子を迎えにバーデンに赴き、寄寓先に
教会用の小品「モテット アヴェ・ヴェルム・コルプス」を
贈っている。
7月26日には末子ヴォルフガング生まれた。

この月に、未知の男がモーツァルトを訪れ、
「レクイエム」を依頼して帰った。

8月、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド二世が
ベーメン(ボヘミア)王も兼ねることになり、
プラハでの戴冠式のため、オペラ・セリア
「ティトウスの慈悲K.621」を依頼された。
弟子のジュースマイアの協力で、18日間で作曲し、
妻とプラハへ出かけた。

9月6日に行われた「ティトウスの慈悲」の初演は、
不成功に終わり、中旬プラハを淋しく去った。
体は、この頃いちじるしく衰えていた。

出来上がった「魔笛」を、9月30日に自らの
指揮で初演し、成功は日ごとに加わっていった。

しかし10月になって病状が悪化し、11月20日に
再起不能の床についた。
それでもなおペンをとったが12月4日、作曲していた
「レクイエム」は、8小節で途絶えてしまい、
5日午前0時55分に35年の生涯を閉じた。
翌6日、聖シュテファン教会でミサがあげられた後、
見送る者もなく、聖マルクス共同墓地に葬られた。

自分の死を決して悲しいとも、いたましいとも
思ってなかったとあるが、モーツァルトは死について
「それは全く神の摂理であり、人間は神を信頼して、
その手に生死をゆだねるべきものだ」と硬く信じていた。

モーツァルトにとってプラハという土地は、
歌劇「フィガロの結婚」が成功したところであり、
また彼の女友だちのドゥシェック夫人を知った
土地なので、楽しい思い出を持つ都市だった。

しかも続いて作曲した歌劇「ドン・ジョバンニ」は、
この都市の求めに応じて作られたものである。

1786年のクリスマスのころ、プラハで上演されていた
「フィガロの結婚」は、聴衆の熱狂をあびていたが、
この上演を前にしてドゥシェック夫妻は
モーツァルトをプラグに招待したのだった。

そのころウィーンで、交響曲「プラハ」を作曲していて、
12月6日完成の日付けがつけられている。
この新作の交響曲を携えて、翌年の1月に
妻のコンスタンツェと共にこの地を訪れ、
「フィガロの結婚」の指揮をした。

1月19日には「プラハ」の初演、即興演奏などを行ない、
プラハの聴衆を沸き立たせ、多くの謝礼とともに
続いてプラハで初演されるための新しい歌劇の
作曲の依頼を受けたのだった。
この新作が「ドン・ジョバンニ」である。

交響曲第38番ニ長調「プラハ」の標題は、
モーツァルトがつけたものではない。
彼の交響曲の作品にはニ長調が数曲があり、
特に交響曲35番「ハフナー」と区別するために、
初演された場所の「プラハ」が使われた。

この曲は、彼の他の交響曲の形式と異なり、
第3楽章のメヌエットを欠いているため、
「メヌエットなし」とも呼ばれ、「ハフナー」を
「メヌエットつき交響曲」と呼ぶことさえある。

最も円熟した技法を持ち、内面的な情緒、
楽曲の構成の見事さと簡潔さから、モーツァルトの
傑作の一つとして、ひろく愛好されている。

        第1楽章 Adagio - Allegro
        第2楽章 Andante
        第3楽章 Presto



(管弦楽)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮) リッカルド・ムーティ        
            ♪ 私が聴いた音源 ♪





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