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...... 2024年10月17日 の日記 ......
■ 《 最後の出版曲 》   [ NO. 2024101701-1 ] ch

【 チェロ・ソナタ ト短調 Op. 65 】

ショパン,フレデリック・フランソア〔ポーランド〕
(1810.03.01〜1849.10.17) 39歳 結核



「なよやかな茎の上に青い花をのせた昼顔のようだ。
そのあまりにももろいかすかな花びらは、
そっと手に触れるだけでも、
たちまち散ってしまいそうである」
友人のリストが言っている。

虚弱な体質に生まれたショパンの晩年は、
病める日々だった。
最後の年の8月、結核の病状が悪化したが、
看病をしたのはジョルジュ・サンドではなくて、
姉のルドヴィカだった。

175年前の10月17日午前2時に、肺結核と
咽頭結核で39年の生涯を閉じた。

マドリード寺院で葬儀、遺骸は10月30日に
ベール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
棺の上には、ポーランドの土がまかれ、
心臓は遺言通り、ワルシャワに持ち帰られ、
聖十字架協会内に安置された。

ショパンは27歳のときから9年間、女流小説家の
ジョルジュ・サンドとの恋愛関係が続き、
この期間に最も円熟した多くの作品を書いている。

ジョルジュ・サンドはショパンよりも
8歳年上で、すでに結婚をしていたので、
先夫との間に2人の子どもがいた。
離婚後は彼女が育てていたが、子どもの
養育に関して2人の意見が合わなかったことが、
サンドとショパンの別離の原因だったと
いわれている。
彼女のもとを去ったショパンは、
再びサンドのもとに帰ることはなかった。

ショパンの生前の最後に出版された作品が、
「チェロ・ソナタト短調」だった。

ショパンの全作品のほとんどがピアノ曲だが、
彼は4曲の室内楽曲を残している。
「ピアノ3重奏曲ト短調」以外の3曲は、
チェロとピアノのために書かれている。

ワルシャワで「最も尊敬するチェリスト」と
言って親しくしていたヨゼフ・メルクと、
ショパンが死の床に横たわるまで、
深い理解をもって交際したフランスの
チェリストのフランコムなど、身辺に優れた
チェロ奏者がいたことが、チェロの作品を書いた
原因のひとつだろうといわれている。

1845年から46年にかけて書かれたこの曲は、
フランコムのチェロとショパンのピアノによって
非公式に初演され、彼に捧げられた。
他の作曲家による同種の作品に比べると、その
ピアノ・パートが技巧的に著しく優れているため、
チェロ・ソナタとしての評価は必ずしも高くないが、
ロマン的趣味にあふれた美しい曲である。

         第1楽章 Allegro moderato
         第2楽章 Allegro con brio
         第3楽章 Largo
         第4楽章 Finale: Allegro




(チェロ)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
(ピアノ)マルタ・アルゲリッチ       
          ♪ 私が聴いた音源 ♪





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