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...... 2024年05月26日 の日記 ......
■ 《 プリマドンナ 》   [ NO. 2024052601-1 ] o

【 歌劇「蝶々夫人」】

プッチーニ,ジャコモ 〔伊〕
(1858.12.22〜1924.11.29) 65歳   
 
三浦環 〔日〕
(1884.02.22〜1946.05.26) 62歳 腹部腫瘍



明治から昭和の戦前にオペラ歌手(ソプラノ)
として活躍した三浦環は、明治17年に
東京で生まれた。

1900年に東京音楽学校(東京芸大)に進み、
ピアノを滝廉太郎に師事している。
卒業後、同校で教職につき、山田耕筰も指導した。

大正3年、再婚した医師の夫と共に渡欧し、
1914年ドイツに留学した。

その後、欧米各地でプッチーニの「蝶々夫人」を
歌い大活躍した。
マスカーニの「イリス」(あやめ)の
アメリカ初演にも、主演している。

1920年からは、世界各地の歌劇場で客演し
活躍したが、昭和21年4月15日に最後の
放送録音をし、40日後の5月26日に
腹部腫瘍のため、62年の生涯を閉じた。
 
45歳のときに作曲した歌劇「蝶々夫人」は、
彼自身好きというだけあって、劇中のほとんどを、
舞台に出どおしというプリマドンナ・オペラである。
東洋の異国的な雰囲気を描くために、日本旋律と
5音音階をよく用い、巧妙な転調や効果的な
管弦楽法で異色な装いをこらしている。

その場面に適切な色彩的な雰囲気や、見事な
舞台効果はさすがに劇音楽の名匠といえる。
このオペラは、ベラスコの戯曲に基づいているが、
ロングの小節に取材されたものである。

小説の「蝶々夫人」を著したロングは、大の
日本びいきで、日本を舞台とした小説や、戯曲を
書いているが一度も日本を訪れたことはなかった。
ロングの姉が宣教師の妻として明治19年に来日し、
夫が長崎の鎮西学院の院長に就任したことから、
その地に赴任し東山手の公舎に住んだので、
長崎の事情にはあかるかった。

彼は、姉から日本についてのいろいろな知識を
得て小説を書き、日本物専門の作家と
みられるまでになっていった。
小説の「蝶々夫人」は、姉が出入りの商人から
聞いた実話に基づいて書かれたという。

ロングの小説が雑誌に発表されてから2年半ほどして
劇作家で演出家として活躍していたベラスコが
戯曲化し、舞台にのせて大成功をおさめた。
それをプッチーニが観劇して、
すぐにまたオペラ化を考えたのである。

時は明治時代、所は長崎。
「越後獅子」「君が代」「お江戸日本橋」など、
日本の曲を取り入れたオペラ「蝶々夫人」は、
1904年にミラノのスカラ座で初演されたが、
これは歴史的な失敗をした。

しかし3ヶ月後の再演は大成功で、その後は
各国で上演されるようになった。
蝶々夫人が自分自身の心を慰めながら歌う、
「ある晴れた日に」はあまりにも有名なアリアである。

プッチーニは、よく劇中のヒロインのために心から涙し、
その死の場をクライマックスとするだけでなく、
その他の場でも、その役のソプラノに甘美哀麗な
旋律を与えている






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