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...... 2024年02月12日 の日記 ......
■ 《 皇帝賛歌 》   [ NO. 2024021201-1 ] ch

【 弦楽四重奏曲 ハ長調 Op. 76の3「皇帝」】

ハイドン,フランツ・ヨーゼフ 〔墺〕
(1732.03.31〜1809.05.31) 77歳

フランツィ二世 〔伊〕
(1768.02.12〜1835.03.02) 67歳



「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれている
ハイドンは、28歳のときにウィーンのかつら師
ケラーの娘テレーゼに恋するが、彼女は
修道院に入ってしまい、テレーゼの姉の
マリア・アンナ・アロイジアと結婚し、家庭を持った。

3歳年上の彼女は家庭的でなくて、なによりも
自分の夫が音楽史上まれにみる才能に恵まれた
作曲家であることを、理解することができなかった。

2人の間に子どもはなく、ハイドンが65歳の
ときに別居し、妻はリウマチに苦しみながら、
夫に先だって71歳で世を去った。

1809年2月7日、ハイドンは2度目で最後の
遺言状を作成した。
5月10日、ナポレオン軍がハイドン家の近くまで
進攻し、12日にはウィーンが占領された。

ハイドンは家庭の幸せを味わうことができないまま、
198年前の5月26日夕刻、衰弱のため昏睡状態に陥り、
31日午前0時40分、息をひきとった。
6月2日に行なわれた追悼式には、ウィーンの音楽家たちが、
モーツァルトの「レクイエム」を歌って見送った。

ハイドンの遺骸は、1932年にハイドンの
生誕200年を記念して、ときのエステルハージ侯爵の
当主によって、侯爵家の菩提寺であるベルク教会内に
立派な廟所が作られ、そこの石棺に収納された。
頭骨は、ウィーン楽友協会の博物館に収められていたので、
全遺骸が合体したのは、1954年になってからだった。

ハイドンが作曲した弦楽四重奏曲は、74曲とされているが、
あまりの多さに正確な数は分からない。

1791年にはイギリスでの生活が始まり、
数えきれない程の栄誉を受けたが、そのなかでも
最高の名誉は、名門のオックスフォード大学から、
名誉音楽博士の称号を受けたことだった。
翌年にはウィーンに戻っているが、
その後もロンドンには何度か訪れている。

1797年、ナポレオン軍がオーストリアを押し寄せる
懸念があったとき、ハイドンはイギリスで聴いた
「神よ、国王を救い給え」という国歌に、深い感銘を
おぼえていたので、オーストリア国民の志気を高める
国歌を作ろうと思い「神よ、皇帝フランツを守り給え」
という曲を作曲した。

この「皇帝賛歌」は、第一次大戦のときまで
オーストリア国歌として、愛唱され続けたが、
現在は、ドイツ国歌として親しまれている。

1798年に作曲した「弦楽四重奏曲作品76の3」の
第2楽章の主題が「皇帝賛歌」の旋律を変奏主題として
用いられていることから、「皇帝」の副題がつけられた。

古くから教会の歌やクロアチアの民謡の中で聴かれてきた。

          第1楽章 Allegro
          第2楽章 Poco adagio, cantabile
          第3楽章 Menuetto
          第4楽章 Finale: Presto



(合奏) アマデウス四重奏団
    ♪ 私が聴いた音源 ♪




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