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...... 2023年10月22日 の日記 ......
■ 《 交響詩の創始者 》   [ NO. 2023102201-1 ] or

【 交響詩「プロメテウス」】
            
リスト,フランツ 〔ハンガリー〕
(1811.10.22〜1886.07.31) 74歳 心筋梗塞
   

       
ピアノの巨匠のリストは、212年前の10月22日に
オーストリの国境地帯にある小さな農村の
ボドリアン(ライディング)で生まれた。

父のアダムは、ハイドンにゆかりの深い
エステルハージ公家の土地管理人を勤め、
楽才もあった。
リストは幼少のころから父の手によって音楽教育を
授けられ、早くから素晴らしい才能を示した。

父は望みの全てをわが子にかけて、
その音楽修行に、また演奏活動に付き添って
廻ったが、リストが15歳のときに病気で世を去った。
一人っ子だったリストはその後、母の生活を
支えていくことになった。

リストが生まれた前年にショパンとシューマンが
生まれている。
3人の創作活動は時を同じくしているが、
民族の相違や、幼年期からの生活環境と
音楽環境の相違、ピアノの上での教育の相違は、
彼らの創作を各自独特のものとした。
リストとショパンは無二の親友だったといわれる。

リストは21歳の時、パリでベルリオーズから
6歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人を紹介され、
親密な関係となり、マリーは夫と家庭を捨てて、
リストとスイスで新居を構えた。
二人のことは、パリではスキャンダルで
もちきりだったといわれている。

長女が生まれたとき、出生届けに母親の本名は
記入できず、私生児として届けられた。
6年後、長男が生まれたが、二人の愛情は次第に
冷却し、マリーは三人の子どもとともに、
パリへと去って行った。

35歳のとき、ロシアでの慈善演奏会で多額の
寄付をしたカロリーネ・フォン・ヴィットゲンシュタイン
侯爵夫人と知り合い、愛しあうようになる。
お互いに結婚を望んだが、侯爵との離婚が成立せず、
別れることとなった。

マリー夫人との間に生まれ、リストによく似た
次女のコジマは、ビューロー夫人となっていたが、
彼女も夫の元を去り、ワーグナーの元にに走った。
その時のリストの心労は甚だしかったといわれる。


   ショパン 〔ポーランド〕(1810〜1849) 39歳     
   シューマン〔ドイツ〕  (1810〜1856) 46歳
   リスト  〔ハンガリー〕(1811〜1886) 74歳 
   ワーグナー〔ドイツ〕  (1813〜1883) 69歳

リストは「ピアノの魔術師」と呼ばれていたが、
「交響詩の創始者」でもあった。
標題音楽をさらに発展させた交響詩という
ジャンルを確立し、13曲の作品を残している。

      1、交響詩「人、山の上で聞きしこと」(山岳交響曲)
      2、交響詩「タッソー、悲劇と勝利」
      3、交響詩「前奏曲」
      4、交響詩「オルフェウス」
      5、交響詩「プロメテウス」
      6、交響詩「 マゼッパ」
      7、交響詩「 祭りの響き」
      8、交響詩「英雄の輝き」
      9、交響詩「ハンガリー」
     10、交響詩「ハムレット」
     11、交響詩「フン族の戦い」
     12、交響詩「理想」
     13、交響詩「ゆりかごから墓場まで」

1850年に詩人、思想家のヘルダーの像の除幕式が
ワイマールで行われるときに、宮廷劇場でヘルダーの
記念公演が催されることになり、そのためにリストは
ヘルダーのカンタータと詩の中から
「解放されたプロメテウス」を選び、
序曲と合唱曲を書き、初演された。

後に序曲と合唱曲を独立させて、出版した。
序曲の方は手を加えて1855年に
交響詩として発表した。

合唱曲の方もその年に補筆し「ヘルダーの解放された
プロメテウスのための合唱曲」として出された。

交響詩「プロメテウス」は、リストの交響詩の中で
最も小規模なもので、形式的な構成よりも
プロメテウスの姿と苦悩と浄化を如実に描いている。



(管弦楽)ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮) ベルナルド・ハイティンク     
           ♪ 私が聴いた音源 ♪





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