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...... 2022年12月31日 の日記 ......
■ 《 第九 》   [ NO. 2022123101-1 ] sy

【 交響曲 第9番 ニ短調 Op. 125(合唱つき)】
        
ベートーベン,ルードヴィヒ・ヴァン 〔独〕
(1770.12.17〜1827.03.26) 56歳  
      

      
ベートーベンは、30歳のときに最初の交響曲を
書いてから、世を去る3年前に最後の交響曲を
完成するまでの24年間に、
全部で9つの交響曲を作曲した。

ハイドンやモーツァルトに比べると作品の数は
少ないが、ちょうど一つの大きな山脈の中の
秀峰のように、一つ一つが独自の山容を
誇りながらそびえ立っている。

シラーの頌歌「歓喜に寄す」を終楽章に用いた
壮大な曲「第9番」は、古今の交響曲を通じての
最高峰といえるだろう。
交響曲に人声を加えるということは、
当時としては大冒険であった。

ベートーベンがこの曲を完成したのは、
1824年(54歳)のときだが、彼がこのシラーの
“愛”と“喜び”とをテーマにした詩に曲をつけようと
考えたのは、まだ故郷のボンにいた22歳の
ころなので、32年の歳月を要したことになる。

この曲を聴くと、ベートーベンが単なる
芸術家ではなくて偉大な思想家であったと
いうことがよくわかる。
彼はこの曲を通じて、人間の生命の尊さと、
平和と自由のもたらす喜びというものを、
全世界の人々に強く呼びかけたかったのだろう。

初演は1824年5月7日、ウィーンで行われた。
すでに完全に聴力を失っていたベートーベンは
総監督として舞台に上がっていたが、聴衆の
熱狂的な拍手にも気づかなかったその時、
歌手の一人が彼の手を取って聴衆のほうを向かせ、
ようやく作品の成功を知ったといわれている。

日本人による「第九」の初演は、
1924年(大正13年)11月29日の
東京音楽学校第48回演奏会だった。
前年の9月1日の関東大震災で、壊滅状態だった
東京で、様々な困難を乗り越えてのこの演奏会は、
まさに文化上の大事件だった。

演奏会の2日前には、新聞に予告記事が載り、
演奏の数時間前から入場希望者の列が
音楽学校の門の外まであふれ、隣の美術学校
(そのころは音楽学校と並んでいた)の門の所まで
続き、演奏会場の奏楽堂は、両側の廊下まで
聴衆があふれたそうだ。

オーケストラとコーラスには、音楽学校の
講師生徒約200名が総出演し、壮大な人類愛を
歌ったベートーベンの音楽を、震災後の
音楽に飢えていた人々の耳と心に届けた。

外国人による日本国内での初演は、
1918年(大正7年)6月1日、第一次世界大戦の
ドイツ人捕虜たちによって徳島県板東俘虜
(ふりょ)収容所内で行われた。

   第1楽章 Allegro ma non troppo, un poco maestoso
   第2楽章 Molto vivace - Presto
   第3楽章 Adagio molto e cantabile - Andante moderato
   第4楽章 Finale: Presto - Allegro assai



(ソプラノ)クラッシミラ・ストヤノヴァ
(アルト) ルオバ・ブラウン     
(テノール)ミヒャエル・シャーデ   
(バリトン)ミヒャエル・フォッレ   
(合唱)  バイエルン放送合唱団   
(管弦楽) バイエルン放送交響楽団  
(指揮)  マリス・ヤンソンス    
       ♪ 私が聴いた音源 ♪




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