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...... 2022年12月05日 の日記 ......
■ 《 最後の曲 》   [ NO. 2022120501-1 ] v

【 レクイエム ニ短調 K. 626 】
        
モーツァルト,ヴォルフガング・アマデウス 〔墺〕
(1756.01.27〜1791.12.05) 35歳
         

           
35歳の最後の年の7月、 歌劇「魔笛」の完成が
間近に迫ったウィーンのモーツァルを1人の男が訪れた。

恐ろしく厳粛な顔をした、異様な風さいの、
鼠色の衣類をまとったその男から依頼されたのが
「レクイエム」だった。

このときモーツァルトは病気の妻と子どもをかかえ、
貧困のなかにいた。
以前は彼の無心に応じていた友人たちも、度重なる
要求には応じきれず、また貴族たちもただ一人として、
見捨てられた食うや食わずの音楽家など
かえりみようとはしなかった。

そのため、あらゆる貴重品を抵当に入れ、
たえず金貸商に行っていた。
7月26日には末子ヴォルフガング生まれた。

8月、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド二世が
ベーメン(ボヘミア)王も兼ねることになり、プラハでの
戴冠式のため、オペラ・セリア「ティトウスの慈悲K.621」を
依頼され、愛弟子のジュースマイヤーの協力で、
18日間で作曲し、妻とプラハへ出かけた。

9月6日に行われた「ティトウスの慈悲」の初演は、
不成功に終わり、中旬にプラハを淋しく去った。
健康は、この頃いちじるしく衰えていた。

出来上がった「魔笛」を、9月30日自らの指揮で初演し、
成功は日ごとに加わっていった。
しかし10月になって病状が悪化していった。

11月20日再起不能の床についた。
それでもなおペンをとったが12月4日、作曲していた
「レクイエム」は第6曲からなるが、第3曲の
第6部〔涙の日〕の8小節目で途絶えてしまった。

12月5日午前0時55分、永遠の眠りについた。
翌6日、聖シュテファン教会でミサがあげられた後、
見送る者もなく、聖マルクス共同墓地に葬られた。

自分の死を決して悲しいとも、いたましいとも
思ってなかったとあるが、モーツァルトは死について
「それは全く神の摂理であり、人間は神を信頼して、
その手に生死をゆだねるべきものだ」と硬く信じていた。

未完成の「レクイエム」は、モーツァルトの死後
約二カ月のちに、ジュースマイヤーによって
書き上げられたが、その後何人かの人物に
手を加えられた版がある。

「レクイエム」を依頼した男は、ヴァルゼック伯爵の
家令で、伯爵が妻の命日に自分の作品として
発表しようとしたことが後になって明らかになった。

     第1曲 レクイエム・エテルナム(永遠の安息を)
     第2曲 キリエ(憐れみの賛歌)
     第3曲 ディエス・イレー(怒りの日)
     第4曲 トゥーバ・ミルム(哀しきラッパの響き)
     第5曲 レックス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)
     第6曲 レコルダーレ(思い出したまえ)
     第7曲 コンフターティス(呪われ退けられし者達が)
     第8曲 ラクリモーサ(涙の日)
     第9曲 ドミネ・イエス(主イエス)
    第10曲 オスティアス(賛美の生け贄)
    第11曲 サンクトゥス(聖なるかな)
    第12曲 ベネディクトゥス(祝福された者)
    第13曲 アニュス・デイ(神の小羊)
    第14曲 ルックス・エテルナ(永遠の光)



(ソプラノ)  マリア・シュターダー       
(コントラルト)マルガ・ヘフゲン         
(テノール)  ニコライ・ゲッダ         
(バス)    トットー・ヴィーナー       
(合唱)    ウィーン・ジングアカデミー    
(管弦楽)   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)    カール・シューリヒト       
             ♪ 私が聴いた音源 ♪




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