【 童謡「かなりや」】 成田 為三 〔日〕 (1893.12.15〜1945.10.29) 51歳 脳溢血
秋田県出身の成田為三は、明治26年に生まれた。 1年間小学校で教鞭を執ったが、大正3年に 東京音楽学校に入学し、ドイツから帰国した 山田耕筰に師事した。
卒業後は佐賀師範学校で教えたが、作曲活動を するために東京に戻った、
大正11年にドイツに留学し、4年後に帰国した。 その後は、教育者として活躍したが、 昭和19年に空襲で被災し、秋田に疎開した。
翌年、上京したが、その翌日の10月29日に 脳溢血で生涯を閉じた。 葬儀では、教え子たちによって「浜辺の歌」が 捧げられた。
「金糸雀(かなりや)」は、『赤い鳥』を主宰した 鈴木三重吉が童謡運動として世に送った 第一作だった。
大正8年(1919年)に、その2年前に刊行していた 『赤い鳥』の別冊『赤い鳥曲譜集その一』に 収録され、翌年に帝劇で催された『赤い鳥音楽会』で、 少女たちによって歌われ、評判となった。
無名の一青年だった西條八十に、鈴木三重吉が 直接依頼し作詞されたが、彼にとっても 最初の成功作となった。
歌詞は4番まであり、1、2、3番は4/2拍子だが、 最後の4番は3/8拍子で違うメロディをつけている。
金糸雀(かなりや)
唄を忘れた金糸雀(かなりや)は うしろの山に棄てましょか いえ、いえ、それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小薮に埋めましょか いえ、いえ、それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか いえ、いえ、それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に、銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を想いだす
西條八十作詞・成田為三作曲
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