 【 交響曲 第7番 嬰ハ短調 Op. 131 】 プロコフィエフ,セルゲイ 〔露〕 (1891.04.23〜1953.03.04) 61歳
 プロコフィエフは、7つの交響曲を書いている。 第1番を除けば第2番、第3番、第4番は 成功作とはいえず、あまり演奏されない。
第1番 古典交響曲 ニ長調 Op. 25(1917年) 第2番 ニ短調 Op. 40(1925年) 第3番 ハ短調 Op. 44(1928年) 第4番 ハ長調 Op. 47(1930年) 第5番 変ロ長調 Op. 100(1944年) 第6番 変ホ短調 Op. 111(1947年) 第7番 嬰ハ短調 Op. 131(1952年)
彼は明快で力強い音楽を好み、ショパンや リストなどのロマン派の音楽を毛嫌いした。 ピアニストとしての彼は、「ピアノは打楽器だから、 打楽器のように演奏しなくてはいけない」と主張し、 強烈なピアノ曲を書き、演奏した。
しかし、後期のプロコフィエフの作風は、 平明な抒情的ものになっていった。 48年に〔プラウダ〕紙上にプロコフィエフ、 ショスターコーヴィチ、ハチャトゥリアンらの ソ連指導的作曲家を〔西欧追随の形式主義者〕と 糾弾され、ソ連当局によりするどく非難されてからは、 いっそう「わかりやすい音楽」を書こうと努力した。
亡くなる前年の作品である「交響曲第7番」を、 彼は「青春交響曲」とよび、「これは、わが青年の 前途の喜びという思想によって生まれたものである」 と述べたと伝えられ、また彼は「自分にとっては 複雑に書くほうが簡単に書くよりもやさしい。 しかし自分はあえて簡単に書く」とか、「音楽の高い 思想や内容を誰にでもわかるように書くのは 最も難しいことだが、自分はそれをやらなければ ならないと思うし、また当然やるつもりだ」という 意味のことを表明したといわれている。
「交響曲第7番」は感傷的といってもいいくらい、 甘美でわかりやすい作品で「過去の音楽」という 印象をあたえる。 1952年10月18日にモスクワで初演されたが、 その後のアメリカの初演共に熱狂的な大成功だった。
第1楽章 Moderato 第2楽章 Allegretto 第3楽章 Andante espressivo 第4楽章 Vivace

(管弦楽)ロンドン交響楽団 (指揮) ワレリー・ゲルギエフ ♪ 私が聴いた音源 ♪
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