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...... 2021年04月06日 の日記 ......
■ 《 最初のヴァイオリン曲 》   [ NO. 2021040601-1 ] co

【 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 】

ストラヴィンスキー,イーゴル 〔露〕
(1882.06.18〜1971.04.06) 88歳



ストラヴィンスキーは、ペテルブルク郊外の
オラニェンバウムで、著名なオペラ歌手の父と、
音楽の天分に恵まれていた母との間に生まれた。

家には20万余の蔵書があり、後に作品の素材となる
多くの民間伝承や、オペラのスコアが含まれていた。

9歳のときに両親はピアノの先生につけたが、
楽譜を読むことをたちまち覚え、即興演奏をするように
なったものの、特別の天分は示さなかった。

父の勧めで、大学では法律を勉強したが、
学友にリムスキー・コルサコフの息子がいて、
本格的に作曲家になる決心をした。
しかし、その後も音楽学校には入らず、
法律を勉強しながら、リムスキー・コルサコフから
作曲法や管弦楽法を学んだ。

第一次大戦では、戦火を逃れて母国ロシアを捨て、
スイスに移住した。
さらに終戦後は、演奏の場を求めてフランスへ移り、
そこで、画家のピカソや作家のコクトーとの
交流を深めたが、この時期の作風は
革新的なものから、古典的な手法に変わった。

1938年、長女を結核で失い、翌年には
妻と母を相次いで病で失った。
第二次世界大戦から逃れることもあって、
ハーバード大学の招きで、単身アメリカに渡り移住した。
翌年、画家のヴェラと再婚し、新たな人生を歩き始めた。

二度の大戦で居住地を変えたが、作風も大きく変わり、
自分にとっての新たな音楽を追い続け、
そこから独自のものを作り続けていった。
その探究心は、死の直前まで衰えず、病床でも
作曲を続け、最愛の妻が見守るなか、50年前の
4月6日にニューヨークで88歳の生涯を閉じた。

彼は、社会的活動を全く好まず、音楽団体の
世話役や会長にも就任したことがなかった。

故国の革命にも無関心だったし、自身の創作を
妨げられることを避けた人生で、彼は長いあいだ
問題の作家だった。
1930年代頃まで、1作品毎に大胆な実験を行ない、
常に「変貌」を続けていった。

ヴァイオリン協奏曲は49歳の作品だが、
ヴァイオリン曲としては、彼の最初の作品である。
書くきっかけとなったのは、自分の趣味にかなう
ヴァイオリニストのサミュエル・ドッシュキンと
知り合いになったことがあげられる。

この曲は、一部の評論家からは、曲芸的で
山師的だと非難を受けたが、その後もドッシュキンの
協力で数々のヴァイオリン独奏用の作品を発表した。

           第1楽章 Toccata
           第2楽章 Aria l
           第3楽章 Aria ll
           第4楽章 Capriccio
           第5楽章 Cadenza



(ヴァイオリン)ジャン=ジャック・カントロフ 
(管弦楽) ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)  ブライデン・トムソン       
             ♪ 私が聴いた音源 ♪





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