【 弦楽器、打楽器とチェレスタの音楽 BB 114 】
バルトーク,ベーラ 〔ハンガリー〕 (1881.03.25〜1945.09.26) 64歳 白血病
ハンガリーの生んだ二十世紀最高の作曲家の1人の バルトークは、140年前の3月25日に ナジュセントミクローシュで生まれた。
父は農学校長で、両親とも音楽が好きだった。 彼は5歳のときから母にピアノを習い始めた。 8歳のときに父が亡くなり、母は小学校の教師として ハンガリー国内を転々としたが、その間も 幼いバルトークに音楽の勉強を勧め、11歳のときには ピアノ小品を書いていた。 10歳のときには、少年ピアニスト・作曲家として、 公衆の前に立ったほどであった。
後にマジャール民謡の知的な研究から、音楽の 新しい可能性をきりひらき、現代音楽を発展させた。
「弦楽器と打楽器とチェレスタの音楽」は、 55歳のときに作られたが、その年の1936年から 1939年頃までの数年間は、バルトークの創作力が 最も充実した時期だった。
ヨーロッパにとって1939年は最も暗い年で、 ナチス・ドイツは3月にチェコを侵入、9月には ポーランドに進撃し、第二次世界大戦へと続いた。
バルトークは、すでに最愛の祖国のくるべき運命を 予測し、ヨーロッパを離れる決心をした。 1940年10月にファシズムの嵐を避けて ニューヨークへ亡命したが、彼の音楽への無理解の中で、 恵まれない生活を送ることになったのだった。
ヨーロッパにとって1939年は最も暗い年で、 ナチス・ドイツは3月にチェコを侵入、9月には ポーランドに進撃し、第二次世界大戦へと続いた。
最も充実した日々の最盛期の傑作である 「二台のピアノと打楽器のソナタ」は、 亡命をする3年前、1937年の7月と8月を 費やしてブダペストで書かれた。
室内楽に9種類(ティンパニ、木琴、響き線付小太鼓、 響き線なし小太鼓、懸垂シンバル、合わせシンバル、 大太鼓、トライアングル、タムタム)もの打楽器を ピアノ二重奏に配するアイディアは画期的である。 もともと彼の音楽は、その民族的性格からアクセントが 強く、ピアノを打楽器的に使う傾向があり、 この曲では打楽器のしめる比重が大きい。
初演以降、好評を博したということもあって、 1940年にはバルトークによって、オーケストラ版 「2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲」が 作成された。
ピアノの打楽器的な用法が目立つ第1楽章から、 柔らかい音色が交叉する第2楽章、 歯切れ良いリズムが特徴の第3楽章は、 小太鼓の最弱奏でカウントしながら消えていく。
第1楽章 Andante tranquillo 第2楽章 Allegro 第3楽章 Adagio 第4楽章 Allegro molto
(管弦楽)シカゴ交響楽団 (指揮) ゲオルク・ショルティ ♪ 私が聴いた音源 ♪
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