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...... 2021年03月05日 の日記 ......
■ 《 瞑想的 》   [ NO. 2021030501-1 ] co

【 ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調 Op. 19 】

プロコフィエフ,セルゲイ〔ソ〕
(1891.04.23〜1953.03.05) 61歳 脳溢血



プロコフィエフは、ヴァイオリンという楽器の
演奏において、正規の教育を受けてなかったが、
ヴァイオリン協奏曲を2曲書き、そのどちらもが
優れた作品として、現在も演奏されている。

第1番の協奏曲は、ペテルグルグ音楽院に
在学していた22歳のころに着手したが、
完成されたのは4年後のことだった。
当時のロシア音楽家の「恐るべき子」として、
野心的な作風を露骨にうかがわせているが、
古典的で叙情的な要素を含んだ曲である。

この曲がひろく認められるようになったのは、
ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティが
紹介してからである。

彼は世界各地の演奏旅行の際にとりあげていたので、
プロコフィエフはシゲティを「私の協奏曲の
最大の演奏者」と呼んで、2人の交友は
この曲を通して親密さを深めた。

1948年初頭から死去までの5年間の
プロコフィエフの晩年は、ほとんど病床にあった。
ピアノも弾かず、電話にもでず、医師の許可した
一日1時間だけの作曲の日課を守っていた。

そんな中でも、プロコフィエフの創作意欲は衰えず、
「チェロと管弦楽のための小協奏曲(コンチェルティーノ)
ト短調作品132」は未完に終わり、
ロストロポーヴィチとカバレフスキーの補筆により
1959年に完成した。

62年前の3月5日にプロコフィエフは脳溢血のため
モスクワで61年の生涯を閉じたが、二十世紀最大の
虐殺者といわれたソ連書記長スターリンもこの日、
脳出血のためモスクワで世を去っている。

プロコフィエフが亡くなったとき、
シゲティは演奏旅行のため東京にいた。
そのときの演奏会で、彼は親友の死を悼み、この曲の
第2楽章を急きょプログラムに組んで演奏している。

プロコフエフ自身も、1918年にアメリカに
亡命する途中、シベリア経由で日本に渡り、
東京帝国劇場で演奏会を催した。
第1番の協奏曲の楽譜の出版は4年くらい後になるの
で、もちろんこの曲は演奏されてなかった。

第1番は3楽章からなるが、全般的に瞑想的で
白昼夢のような不思議な抒情性に溢れている。

         第1楽章 Andantino
         第2楽章 Scherzo: Vivacissimo
         第3楽章 Moderato-Andante



(ヴァイオリン)庄司紗矢香                
(管弦楽) サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)  ユーリ・テミルカーノフ            
            ♪ 私が聴いた音源 ♪





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