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...... 2020年10月17日 の日記 ......
■ 《 別れのワルツ 》   [ NO. 2020101701-1 ] s

【 ワルツ第9番 変イ長調「告別」 Op. 69の1 】

ショパン,フレデリック・フランソア 〔ポーランド〕
(1810.03.01〜1849.10.17) 39歳 結核



「なよやかな茎の上に青い花をのせた昼顔のようだ。
そのあまりにももろいかすかな花びらは、
そっと手に触れるだけでも、たちまち
散ってしまいそうである」
友人のリストが言っている。

「僕は次第にピアノを弾かなくなるし、なんにも書けない!」
虚弱な体質に生まれたショパンの晩年は、
病める日々だった。
最後の年の8月、結核の病状が悪化したが、
看病をしたのはジョルジュ・サンドではなくて、
姉のルドヴィカだった。

171年前の10月17日午前2時に、肺結核と
咽頭結核で39年の生涯を閉じた。

マドリード寺院で葬儀、遺骸は10月30日に
ベール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
棺の上には、ポーランドの土がまかれ、心臓は
遺言通り、ワルシャワに持ち帰られ、
聖十字架協会内に安置された。

ショパンは27歳のときから9年間、女流小説家の
ジョルジュ・サンドとの恋愛関係が続き、
この期間に最も円熟した多くの作品を書いている。

ジョルジュ・サンドはショパンよりも
8歳年上で、すでに結婚をしていたので、
先夫との間に2人の子どもがいた。
離婚後は彼女が育てていたが、子どもの養育に
関して2人の意見が合わなかったことが、サンドと
ショパンの別離の原因だったといわれている。
彼女のもとを去ったショパンは、再びサンドの
もとに帰ることはなかった。

1835年9月、ショパンはドイツのカルルスパートに、
当時ポーランドから療養に来ていた
両親に会うため、パリから出かけて行った。
帰途、ドレスデンに立ち寄り、旧知の
ヴォジンスキー伯爵を訪問した。
伯爵にはマリアという19歳になる娘がいたが、
イタリア系の血をひいた漆黒の髪と、大きな瞳と
そして厚ぼったい唇は、情熱的で魅力的だった。

マリアはピアノも声楽も作曲もよくしたらしい。
ショパンはこの幼馴染みの令嬢に会って、
たちまち心を惹かれ、急速に親しくなり、
焼けつくような情熱の一ヶ月を送り、彼は別れ際に
ワルツを一曲書いて彼女に贈った。

彼女は、これを後に「別れのワルツ」と名付けたが、
二人の恋愛は結局結ばれずに終わった。
ショパンが一生を通じて真剣な恋をし、そして結婚を
しようとまで思いつめたのは、マリアだけだった。

ショパンは彼の生存中、過去の思い出のために
この曲を出版せず、引き出しの底にしまっていた。
自筆の楽譜草稿には「1835年9月、ドレスデンにて」
と書き入れられていた。

この曲は素晴らしく旋律は優雅で、哀愁感を持った
抒情的な作品である。
楽譜が出版されたのはショパンの死の6年後だった。



(ピアノ)ヴィットリオ・フォルテ
      ♪ 私が聴いた音源 ♪





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