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...... 2020年05月31日 の日記 ......
■ 《 ロブコヴィッツ 》   [ NO. 2020053101-1 ] e_ch

【 弦楽四重奏曲 ト長調 Op. 77の1 】

ハイドン,フランツ・ヨーゼフ 〔墺〕
(1732.03.31〜1809.05.31) 77歳



「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれている
ハイドンは、28歳のときにウィーンのかつら師
ケラーの娘テレーゼに恋するが、彼女は
修道院に入ってしまい、テレーゼの姉の
マリア・アンナ・アロイジアと結婚し、家庭を持った。

3歳年上の彼女は家庭的でなくて、なによりも
自分の夫が音楽史上まれにみる才能に恵まれた
作曲家であることを、理解することができなかった。

2人の間に子どもはなく、ハイドンが65歳のときに
別居し、妻はリウマチに苦しみながら、
夫に先だって71歳で世を去った。

1809年2月7日、ハイドンは2度目で
最後の遺言状を作成した。
5月10日、ナポレオン軍がハイドン家の近くまで
進攻し、12日にはウィーンが占領された。

ハイドンは家庭の幸せを味わうことができないまま、
211年前の5月26日の夕刻、衰弱のため
昏睡状態に陥り、31日午前0時40分、息をひきとった。
6月2日に行なわれた追悼式には、ウィーンの
音楽家たちが、モーツァルトの「レクイエム」を
歌って見送った。

ハイドンの遺骸は、1932年にハイドンの
生誕200年を記念して、ときのエステルハージ侯爵の
当主によって、侯爵家の菩提寺であるベルク教会内に
立派な廟所が作られ、そこの石棺に収納された。
頭骨は、ウィーン楽友協会の博物館に
収められていたので、全遺骸が合体したのは、
1954年になってからだった。

1791年にはイギリスでの生活が始まり、
数えきれない程の栄誉を受けたが、そのなかでも
最高の名誉は、名門のオックスフォード大学から、
名誉音楽博士の称号を受けたことだった。
翌年にはウィーンに戻っているが、
その後もロンドンには何度か訪れている。

ハイドンが作曲した弦楽四重奏曲は、74曲と
されているが、あまりの多さに正確な数は分からない。

1799年に作曲された「弦楽四重奏曲77」は
2曲あるが、事実上ハイドンの最後のまとまった
弦楽四重奏曲となった。
この2曲は、ロブコヴィッツ公に献呈されたことから
「ロブコヴィッツ」とよばれている。

3年後の70歳のときに未完の一曲(作品103)を
作っているが、「私の力は永久に去った。
私はすでに老いて、弱い」という言葉とともに、
中間の2つの楽章だけしか書かれなかった。

「作品77ー1」は、Hoboken番号では
81番となっている。

        第1楽章 Allegro moderato
        第2楽章 Adagio
        第3楽章 Menuetto:presto
        第4楽章 Finale: Presto



(演奏)アマデウス四重奏団
   ♪ 私が聴いた音源 ♪





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