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...... 2020年04月01日 の日記 ......
■ 《 超絶技巧のピアニスト 》   [ NO. 2020040101-1 ] e_co

【 ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 Op. 40 】

ラフマニノフ,セルゲイ・ヴァシリエヴィチ〔露〕
(1873.04.01〜1943.03.28) 70歳  癌



二十世紀ロシアを代表する作曲家のラフマニノフは、
由緒あるロシア貴族で、近衛の隊長だった父と
教養高い母との間に147年前の4月1日に
ノヴゴロト州のオネグで生まれた。

4歳のときから母についてピアノを学び始めたが、
農奴解放以後の社会的変動の中で、父は次第に
領地を失い、ラフマニノフが9歳のときに
両親は別居し、母と共にペテルブルクに移り、
その地の音楽院でピアノを学んだ。

彼の作品で、最も重要なのはピアノ曲で、傑作と
認められているものは、ほとんどこの分野に属している。
作曲家であると同時に、稀にみる
ヴィルトゥオーゾとして、壮麗豪華な演奏で
巨匠とうたわれたピアニストであった
ラフマニノフにとっては、これは当然のことであった。

作曲家としては、ピアノ曲、管弦楽曲、室内楽曲、
声楽曲の分野にも数々の優れた作品を書いている。
しかしなんといっても、ラフマニノフの傑作は
ピアノ曲で、24の前奏曲とピアノ協奏曲(4曲)が
最も知られた作品 である。

     ピアノ協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 Op. 1(1891年)
     ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op. 18(1901年)
     ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 Op. 30(1909年)
     ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 Op. 40(1926年)

1893年にチャイコフスキーが世を去ったときは、
この偉大な音楽家を悼んで、ピアノ三重奏曲
「悲しみの三重奏曲」を作曲した。

ラフマニノフと同時代のロシアには、急進的手法を
追求したスクリャービンや、アカデミズムな傾向の強い
グラズノフがいたが、彼はあくまでも保守的な一線を
固守し、チャイコフスキーの伝統への復帰こそ、
ロシアの音楽の正しい道であると考えていた。

彼は、叙情性とセンチメンタリズムを特徴とする、
チャイコフスキーの伝統を受け継ぐ
モスクワ学派の1人にあげられる。

1917年の末に、ソヴィエト政権を嫌って
パリに亡命し、翌年アメリカに移り永住の地と定めた。
毎年、春にはアメリカでの演奏会、夏には
スイスで静養し、秋にヨーロッパを演奏旅行する、
といった生活を繰り返した。

ロシア革命が彼の生活を根本から覆したが、
1940年ころ、祖国ロシアに復帰する意志が
あったものの、第二次世界大戦のため
それが実現できずに、カリフォルニアの
ビヴァリー・ヒルズで生涯を閉じた。

ラフマニノフは1917年から世を去る25年間に
6曲しか作品を書かなかったが、その中の1曲に
「ピアノ協奏曲 第4番」も含まれる。

      第1楽章 Allegro vivace (Alla breve)
      第2楽章 Largo
      第3楽章 Allegro vivace

初演は、作曲の翌年の3月18日に
ラフマニノフのピアノ、ストコフスキーの指揮、
フィラデルフィア管弦楽団によって行なわれた。



      (ピアノ) ウラディミール・アシュケナージ
      (管弦楽) ロンドン交響楽団
      (指揮)  アンドレ・プレヴィン





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