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...... 2020年03月25日 の日記 ......
■ 《 最盛期の傑作 》   [ NO. 2020032501-1 ] e_co

【 二台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲
                   BB121 】


バルトーク,ベーラ 〔ハンガリー〕
(1881.03.25〜1945.09.26) 64歳 白血病



ハンガリーの生んだ二十世紀最高の作曲家の1人の
バルトークは、139年前の3月25日に
ナジュセントミクローシュで生まれた。

父は農学校校長で、両親とも音楽が好きだった。
彼は5歳のときから母にピアノを習い始めた。
8歳のときに父が亡くなり、母は小学校の教師として
ハンガリー国内を転々としたが、その間も
幼いバルトークに音楽の勉強を勧め、
11歳のときにはピアノ小品を書いていた。
10歳のときには、少年ピアニスト・作曲家として、
公衆の前に立ったほどであった。

後にマジャール民謡の知的な研究から、音楽の
新しい可能性をきり開き、現代音楽を発展させた。

ヨーロッパにとって1939年は最も暗い年で、
ナチス・ドイツは3月にチェコを侵入、9月には
ポーランドに進撃し、第二次世界大戦へと続いた。

バルトークは、すでに最愛の祖国のくるべき
運命を予測し、ヨーロッパを離れる決心をした。
1940年10月にファシズムの嵐を避けてニューヨークへ
亡命したが、彼の音楽への無理解の中で、
恵まれない生活を送ることになったのだった。

最も充実した日々の最盛期の傑作である
「二台のピアノと打楽器のソナタ」は、亡命をする
3年前、1937年の7月と8月を費やして
ブダペストで書かれた。

室内楽に9種類(ティンパニ、木琴、響き線付小太鼓、
響き線なし小太鼓、懸垂シンバル、合わせシンバル、
大太鼓、トライアングル、タムタム)もの打楽器を
ピアノ二重奏に配するアイディアは画期的である。
もともと彼の音楽は、その民族的性格からア
クセントが強く、ピアノを打楽器的に使う傾向があり、
この曲では打楽器のしめる比重が大きい。

初演以降、好評を博したということもあって、
1940年にはバルトークによって、オーケストラ版
「2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲」が
作成された。

ピアノの打楽器的な用法が目立つ第1楽章から、
柔らかい音色が交叉する第2楽章、
歯切れ良いリズムが特徴の第3楽章は、
小太鼓の最弱奏でカウントしながら消えていく。

      第1楽章 Allegro lento - Allegro molto
      第2楽章 Lento, ma non troppo
      第3楽章 Allegro non troppo


 
       (ピアノ)エマヌエル・アックス
       (ピアノ)野崎洋子
       (打楽器)ステファン・ペレグリ
       (打楽器)ティヌエリー・ウトゥ
       (管弦楽)リヨン国立管弦楽団
       (指揮) デイヴィット・ロバートソン
             ♪ 私が聴いた音源 ♪





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