 【 ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 Op. 21 】
ショパン,フレデリック・フランソア 〔ポーランド〕 (1810.03.01〜1849.10.17) 39歳 結核

1830年3月17日は、ショパンがワルシャワで 独奏会を開き、ピアニストとして デビューした日とされている。
その年、ショパンはワルシャワ音楽学校を卒業し、 学友3人とウィーンに旅行しているが、 その折にも演奏会を開き注目された。
ウィーン訪問よりの帰朝第1回演奏会が、 デビューの日となり、作曲者自身がピアノ独奏を 担当して「ピアノ協奏曲第2番」を初演した。 このとき、前売り切符が全部売り切れ盛況だった。
彼の初恋の人、コンスタンティア・グラドコフスカへの 思慕がこの曲を作らせたといわれるが、 彼女はワルシャワ音楽学校の同級生で、 声楽を勉強していた。
ショパンはあまりにも夢想家で、はにかみやの 女々しい性格のため、燃ゆる想いを彼女に 直接訴えることができないままに、彼女の住む ワルシャワに居ることが堪えられず、世界遍歴の 旅に出、再び故国に帰ることはなかった。
2年後、彼女は地方の豪族に嫁いだが、 ショパンが憧れた星のように輝いていた青い目は、 次第に見えなくなってゆき、 ついに失明してしまったといわれる。
この曲は、コンスタンティアには贈られず、 後年パリでショパンと親交を結び、彼の臨終の際にも、 ショパンのために歌を歌った、美貌の才女の ダルフィーヌ・ポトッカ伯爵夫人に捧呈されている。
ショパンは、ピアノ協奏曲を2曲書いたが、 それらは作曲の年代とは逆に出版されてしまった。 第1番ホ短調は、1830年に作られたが1833年に 出版され、第2番ヘ短調は1829年に作曲されたが 1836年に出版されている。
第2番協奏曲は19歳から20歳の作品なので、 後年の円熟期の作品にみられる内容の深さ、 作曲技巧の変化や完璧性に乏しいともいわれるが、 青年期特有の情緒の繊細さ、感覚の新鮮味、 表現の絢爛さからは、希有の天分が輝いている。
第1楽章 Maestoso 第2楽章 Larghetto 第3楽章 Allegro vivace

(ピアノ)マルタ・アルゲリッチ (管弦楽)ワシントン・ナショナル交響楽団 (指揮) ムスティスラフ・ロストローヴィチ ♪ 私が聴いた音源 ♪
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