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...... 2020年03月01日 の日記 ......
■ 《 ピアノの詩人 》   [ NO. 2020030101-1 ] s

【 マズルカ 第27番 ホ短調 Op. 41の1 】

ショパン,フレデリック・フランソア 〔ポーランド〕
(1810.03.01〜1849.10.17) 39歳  結核



ショパンは210年前の3月1日にポーランドの首都
ワルシャワ近郊のスカルベック伯爵夫人の
所有地であるジェラゾーヴァ・ヴォラで生まれた。

フランス人の父が、伯爵家のフランス語の
家庭教師として住み込んでいたためである。
母は伯爵夫人の遠縁にあたり、古いポーランドの
貴族出で、家政婦として働いていた。

2人の間には、4人の子どもが生まれたが、
ショパンは姉と妹2人の間の長男だった。
父はその後伯爵家を出て、学校の
フランス語教師として一生を終えた。

ショパンが作曲したのは、ほとんどがピアノ曲で、

マズルカ(51曲)   練習曲(27曲)  
前奏曲(26曲)    夜想曲(21曲)  
円舞曲(21曲)    ポロネーズ(15曲)
バラード(4曲)    即興曲(4曲)   
スケルツォ(4曲)   ピアノソナタ(3曲)

その他多くの作品が残されている。

リスト(1811〜1886)は「ピアノの巨匠」、
ショパンは「ピアノの詩人」といわれている。

1832年にパリで催されたショパンのデビュー演奏会に、
リストとメンデルスゾーンが訪れている。
楽屋で面会したショパンとリストは、それ以後
無二の親友となり、リストは4年後に有名な
女流作歌のジョルジュ・サンドを紹介している。

この2人の芸術家は、全く相反する性格をもっていたが、
お互いの長所を認め合い、良い影響を与えていた。

マズルカは、ポーランドの郷土色濃厚な舞曲の一つだが、
彼は気持の向くままに自由奔放に作曲している。

マズルカ作品41は4曲からなり、第27番ホ短調は、
憂鬱な情緒を漂わせていて、ハネカーによると
「涙をもよおさせるほど悲しい」と・・・

サンドとの交際が始まった1838年に、結核の療養で
滞在していたマジョルカ島のパルマで作曲している。



        (ピアノ)ニキタ・マガロフ
           ♪ 私が聴いた音源 ♪






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