 【 歌曲「ケンタッキーのわが家」】
フォスター,スティーヴン・コリンズ 〔アメリカ〕 (1826.07.04〜1864.01.13) 37歳

フォスターは、地方(ペンシルヴェニア州)の 裕福な実業家の家に生まれた。 父は趣味でヴァイオリンを弾いていたし、 母は詩の素養がある教養豊かな人だった。
ハイ・スクール時代に音楽的才能をみせたが、 大学を中退するまでに若干の音楽教育を受け、 歌曲を書いたり、友人とコーラス・グループを つくったりする程度だった。 18歳のときに最初の作品「窓をおあけ、恋人よ」が 出版されてから、音楽の道に進んだ。
純粋にアメリカ的な性格をもった歌曲を 最初に書いた歌曲作家フォスターの作品は、 アメリカだけでなく世界の愛唱歌となり、 アメリカ民謡を代表するものとなっている。
平易な旋律構成のなかに美しい情緒や、 あたたかい情感をたたえたものが多く、 アメリカ南部の黒人の民族音楽やその生活を 取材して作られたものもある。
美しく親しみやすい旋律の歌曲は、発表当時も 好評だったが、フォスタ−自身はわずかな印税を 得ただけで出版業者を儲けさせたといわれる。 出版された曲は188曲にものぼる。
晩年はフォスターの不規則な生活のため、 愛する妻や一人娘と別居生活をしていた。 すぐれた才能にも十分報いられることなく、 37歳の若さで貧困と孤独のうちに、 156年前の1月13日にニューヨークの病院で 短い生涯を終えた。
彼の死骸は故郷の父と母の傍らに葬られ、 墓地では吹奏楽団が「故郷の人々」を 演奏したといわれている。
「おお、スザンナ」(1848) 「草競馬」(1850) 「故郷の人々(スワニー河)」(1851) 「主人は冷たい土の中に」(1852) 「金髪のジェニー」(1854) 「オールド・ブラック・ジョー」(1860) 「夢みる人」(1864)
「ケンタッキーのわが家」(My Old Kentucky Home)は、 1850年にフォスターがケンタッキー州の いとこの家を訪ねた後に作ったものといわれている。
昭和10年9月「高等小学新唱歌」の第2学年用に、 「別れ」という題で載ったのが、唱歌教材として 用いられた最初である。
ケンタッキーのわが家
なつかし わが故郷に 夏の日きたれば 畑は実のり 花は咲き 木々に小鳥うたう おさなごたわむれ遊び 笑い部屋にみつ されど悲しそは夢か 別るる日となりぬ ああわが君 しのびたまえ いざ歌わん 別れのふしを さらばケンタッキーの家よ
津川主一 訳詞
懐かしいわがケンタッキーの家
懐かしいわがケンタッキーホーム 夏の朝日照り 麦は黄ばみ 野は緑 ひねもす鳥は鳴く 若者らはやすらいで 歌いさわぐ時 浮世の風吹きそめて 故郷よ さらば 今は涙拭いたまえ いざ歌わん われらの歌を わがケンタッキーを去るとも 今は涙拭いたまえ いざ歌わん われらの歌を わがケンタッキーを去るとも
伊庭 孝(訳)
わが家の書棚には、姉が買ったものと思われる 「フォスター歌曲全集」がある。 日本音楽雑誌株式会社刊 定価20圓 昭和二十一年五月十五日印刷 昭和二十一年五月二十日発行
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