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...... 2024年07月16日 の日記 ......
■ 《 帝王カラヤンの最後の演奏会 》   [ NO. 2024071601-1 ] sy

【 交響曲 第7番 ホ長調 】

ブルックナー,アントン 〔墺〕
(1824.09.04〜1896.10.11) 72歳

カラヤン,ヘルベルト・フォン 〔墺〕
(1908.04.05〜1989.07.16) 81歳


 
カラヤンは1954年(46歳)に単身で初来日し、
約一カ月間滞在して、NHK交響楽団を指揮した。
音楽界の帝王になる前だったが、熱心にN響の
指導をし、また若い指揮者へのレッスンも行なった。

この初来日以降、カラヤンはベルリン・フィルまたは
ウィーン・フィルとともに10回もの来日公演を行った。

1842年に創立されたウィーン・フィルハーモニー
管弦楽団は、ベルリン・フィルとならぶ世界最高の
オーケストラの1つで、専任の指揮者をもたず、
客演指揮者制でコンサート活動を展開しているが、
1983年にカラヤンに名誉指揮者の称号を与えている。

ベルリン・フィルの創立は1882年で、
1954年にフルトヴェングラーが急逝した後、
カラヤンが音楽監督に就任し、ベルリン・フィルの
新たな黄金期が到来した。

カラヤンとのコンビは、世界最高の組み合わせと
称され、演奏会のみならず、レコード・映像産業にも
大きな変革をもたらした。

カラヤンの最後の演奏会となった1989年
4月23日に指揮をしたのが、ブルックナーの
「交響曲第7番」だったが、彼は「ベルリンとは
結婚生活を営み、ウィーンとは恋愛関係にある」
と語っていたという。

しかし、晩年は女流クラリネット奏者の
ザビーネ・マイヤーの入団問題がきっかけとなって
オーケストラとの関係が悪化し、
1989年にベルリン・フィルの音楽監督を辞任、
その直後の7月16日にザルツブルグ郊外にある
自宅にて急逝した。

ブルックナーの作品は、生涯にわたって畏敬の念を
抱き続けたワーグナーの影響を受けているが、
出世作となった「交響曲第7番」は、ワーグナーの
病気と死とから生まれたものである。

「私は家に帰ったが、非常に悲しかった。
巨匠がもう長く生きることは不可能だと思ったからである。
だから嬰ハ短調のアダージョ(第2楽章)を思いついた」
と手紙に書いている。

ワーグナーの訃報が伝えられると、ブルックナーは
悲しみの中、第2楽章のコーダを書き加えて哀悼の
意を表し。クライマックスではワーグナーが考案した
金管楽器のワーグナーチューバによるコラール風の
敬けんな葬送曲が悲し気だ。

ワーグナーは、1883年2月13日に亡くなったが、
「交響曲第7番」が完成したのは、その年の9月で
翌年の12月30日にライプツィヒで初演され、
大成功をし、1年後にバイエルン国王の
ルートヴィヒ二世に献呈された。

     第1楽章 Allegro moderato
     第2楽章 Adagio: sehr feierlich und sehr langsam
     第3楽章 Scherzo: sehr schnell
     第4楽章 Finale: Bewegt,doch nicht schnell



(管弦楽)ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮) テオドール・グシュルバウアー      
              ♪ 私が聴いた音源 ♪
  




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