[PREV] [NEXT]
...... 2024年04月17日 の日記 ......
■ 《 ベートーベン弾き 》   [ NO. 2024041701-1 ] s

【 ピアノ・ソナタ 第1番 ヘ短調 Op. 2-1 】
       
ベートーベン,ルードヴィヒ・ヴァン〔独〕
(1770.12.16〜1827.03.26) 56歳

シュナーベル,アルトゥル 〔墺〕
(1882.04.17〜1951.08.15) 69歳



ベートーベンのピアノ・ソナタは作品2から
作品111まで36曲残されているが、
作品番号がついた32曲は、ピアノ音楽の
大きな発展史を形づくっている。

作品2は第1番ヘ短調、第2番イ長調、
第3番ハ長調の3曲のソナタで、
ベートーベンが25歳のときの作品である。

これらはハイドンに捧げられ、彼がイギリスから
ウィーンに帰ってきたとき、演奏会で
ベートーベン自身が弾いて聴かせている。

38歳違いのハイドンとの関係は、ベートーベンが
20歳のときの夏に、ハイドンが第1回訪英の途中
ボンに立寄った際に会うことができたことから始まった。
さらに2年後、イギリスで大成功に気を良くして
引き上げてきたハイドンに再会し、カンタータ1曲を
見てもらったが、ハイドンはこの曲にベートーベンの
才能を認め、いっそうの勉学を勧めた。

そして、その年の秋にベートーベンは
ウィーンでハイドンから学ぶことになった。
ハイドンは彼に満足していたが、ベートーベンの
ほうは実際に教えを受けてみると、かつて偉大な
偶像だった大ハイドンにもいろいろと
失望を感じることがでてきた。
「ハイドンからはなにも学ぶところはなかった」
とまでいうほどになった。

ハイドンの性格からすると、教師としての仕事が
得意でなかったのだろうし、教える相手が
大きな希望に胸を膨らませている血の気の多い
ベートーベンとはバランスがとれなかったのだろう。

翌年の暮れ、ベートーベンはハイドンのもとを
去っている。
その後、ハイドンは第2回の訪英をしたので、
ちょうど良い理由ができたわけではあるが・・・

しかし、ハイドンがイギリスから帰って、作品を
捧げていることを考えると、ベートーベンにしてみれば
彼の向学心を十分に満たしてくれなかったことには
不満をもちつつ、ハイドンの過去の業績を考えると
やはり偉い大先輩であったということだろう。

ハイドンにしても、当時の彼の高い楽壇的地位や
年齢からすれば、駆け出しの青年音楽家の
不平や不満などは、そう大して気にとめるほどの
大事ではなかったのかもしれない。

「第1番 ヘ短調 作品2の1」は、第2のソナタの
うちでも一番悲劇的な情緒をもった曲で、
彼のエネルギッシュな面も現れていて、
ベートーベンの調子の強い作風が
一番はっきりとうかがわれる。

ブラームスから「将来最も恐るべき天才」と
絶賛されたシュナーベルは、142年前の4月17日に
オーストリア領ガリチアのクンツェンドルフで生まれた。

1921年にアメリカでデビューし、6年後には
ベートーベンのピアノソナタの全曲演奏を
7夜にわたって開催し、「ベートーベン弾き」として
名声を確立した。

1932年から1937年にかけて、世界で初めての
ベートーベンの「ピアノソナタ全集」と
「ピアノ協奏曲全集」をレコーディングしている。

         第1楽章 Allegro
         第2楽章 Adagio
         第3楽章 Minuetto : Allegretto
         第4楽章 Prestissimo



 ピアノ)ヴィルヘルム・ケンプ
     ♪ 私が聴いた音源 ♪





...... トラックバックURL ......
  クリップボードにコピー

...... 返信を書く ......
[コメントを書く]
タイトル:
お名前:
メール:
URL:
文字色:
コメント :
削除用PW:
投稿キー: