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...... 2024年03月21日 の日記 ......
■ 《 音楽の父 》   [ NO. 2024032101-1 ] co

【 ヴァオリン協奏曲 第2番 ホ長調 BWV1042 】
        
バッハ,ヨハン・セバスティアン 〔独〕
(1685.03.21〜1750.07.28) 65歳
          

           
バッハは、339年前の3月にドイツの
テューリンゲン地方の西端、ルターの聖書訳で知られる
ヴァルトブルクの古城を仰ぎ見るところにある、
アイゼナッハという、人口5,6万の小さな町で生まれた。

3月23日に、この町の聖ゲオルク教会で洗礼を
受けているので、生まれたのはその2日前の
3月21日(ユリウス暦)だろうと言われている。

幼い時から父や兄に音楽を学んでいたが、
10歳で両親を失い、兄に引き取られた。
23歳で宮廷オルガニストになったころは、
オルガニストとしての、名声はますます高まっていった。

65歳で亡くなるまでに無数の名曲をのこし、
ヘンデルとともにバロック音楽の最後を飾り、
音楽史最大の音楽家の1人となった。

バッハ家は、ヨハン・セバスチャン・バッハから
四代前の十六世紀末から、息子たちの世代である
十八世紀の末にいたるまで、200年にわたり
50人以上の音楽家を輩出している。

「バッハの生涯はまことに平凡である。
同年のヘンデルがヨーロッパを股にかけて活躍し、
その生涯が波瀾に富んでいるのに対して、
バッハは一生の間ドイツ以外に足を踏み出したことがなく、
その生活は典型的な中流市民のそれであった。
モーツァルトのように彼の神童ぶりを伝える逸話一つなく、
ベートーベンの生涯を貫く、劇的な精神の葛藤もない。
ショパンやリストの生涯を彩る華やかな女性関係もない。
あるのはただ、ひたすらに自らの職務を全うし、
つつましい家庭生活を愛した平凡な
職業音楽家の姿なのである。
そのような平凡な生活から、あのような非凡な音楽が
生まれたことこそが、むしろ奇跡のようにさえ思える。」
(バッハについて書かれている文から)

その時代のドイツの音楽家は、都市、宮廷、教会という、
そのいずれかに雇われて、それぞれの職場が
要求する音楽を提供する以外には生活ができなかった。

彼は、22歳のときに又従姉妹のマリア・バルバラと
結婚し、7人の子ども(3人は死亡)に恵まれ、
長男と次男は優れた作曲家となった。
マリアは良妻賢母であったが、
長男が12歳のときに病死してしまう。

翌年16歳年下のソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナと
再婚し、彼女は13人の子どもを生んだ。
夫を心から敬愛し、良き伴侶として
平和な家庭を築いた。
バッハは愛する妻や子どももために、
数多くの家庭音楽を作曲した。

バッハは3曲のヴァイオリン協奏曲を作曲した。
(イ短調、ホ長調、二つのヴァイオリンのためのニ短調)
それらは、息子のエマヌエルによって保存され、
現在でもベルリンの国立図書館に所蔵されている。

他にも数曲のヴァイオリン協奏曲があると
推定されているが、これらの協奏曲が作られたのは、
32歳から38歳の間のバッハが主に器楽曲を書いた
ケーテン時代である。

そのころ仕えていたレオポルト公は自らヴァイオリンや
チェロ、クラブサンを演奏できたし、イタリアへの
旅行で南ヨーロッパの器楽曲を愛好するように
なっていたため、バッハも協奏曲を作る際、
イタリア風のものを念頭においていた。

バッハの作品で、存命中に出版されたものは
非常に少なくて、数多くの傑作はほとんどの作品が
演奏されることはなかった。
しかしホ長調協奏曲は例外で、バッハの存命中も、
彼の作品が全然かえりみられなかった時代にも
演奏されていたし、現在でも、バッハの作品中
最も愛好されているものの一つである。

特に第2楽章の表情豊かな美しさと、
甘美な情緒がバッハの偉大さを感じさせる。

        第1楽章 Allegro
        第2楽章 Adagio e sempre piano
        第3楽章 Allegro assai

この曲は「チェンバロ協奏曲第3番ニ長調」として、
後にバッハによって書き直されている。



(ヴァイオリン)ヒラリー・ハーン    
(管弦楽)   ロサンゼルス室内管弦楽団
(指揮)    ジェフリー・カハネ   
          ♪ 私が聴いた音源 ♪





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