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...... 2022年01月31日 の日記 ......
■ 《戦後を代表する作曲家》   [ NO. 2022013101-1 ] v

【 童謡「ぶらんこ」】
         
芥川 也寸志
(1925.07.12〜1989.01.31) 63歳 肺がん



戦後を代表する作曲家の芥川也寸志は、
文豪・芥川龍之介の三男として大正14年に
東京で生まれ、昭和を生き抜いて、平成元年
1月31日に闘病中の国立がんセンターで、
肺がんのため63年の生涯を閉じた。

23歳のとき「交響三章」でデビューをし、
25歳のときには「交響管弦楽のための音楽」で
NHK管弦楽懸賞の特選に入選した。
28歳で「弦楽のための三楽章」がアメリカの
カーネギー・ホールで初演されるなど、
戦後の日本音楽界でいち早く活躍を始めた。

子どものころ、父・龍之介の所有していた蓄音機で
ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「ペトルーシュカ」
のレコードを毎日のように聴いた原体験に、
戦後すぐ日本に伝わってきたショスタコーヴィチや
プロコフィエフの音楽に、強い衝撃を受けた。

1954年秋、わずかなお金と自分の作品を持って、
芥川は憧れのソビエトに乗り込んだ。
当時、まだ日ソ間には国交がなく、ウィーンから
地下ルートで東側に入るという冒険だった。
いったんモスクワに着いたものの、事の成りゆきから
中国の上海にまで足をのばし、そこでは持って行った
自作の演奏会まで開いた。

モスクワに戻った芥川は、ショスタコーヴィチや
ハチャトゥリアン、カバレフスキーなどに会い、
自分の作品の「交響三章」などを批判してもらった。
そして「交響三章」はソビエト国立出版所から
出版され、その印税で無事帰国することができた。

当時その出版所から出版された外国人の作曲家は、
アメリカのガーシュイン、イギリスのブリテン、
デンマークのニールセンと芥川だけだった。

放送、バレエ、映画音楽、童謡など現代的な作風で、
多くの作品を残した。
都会的なダンディな風貌 、知的な柔らかいおしゃべりで、
テレビの音楽番組の司会者としても活躍した。

童謡は、都築益世(1898〜1983)作詞の
「ぶらんこ」の他に「ことりのうた」(与田準一作詞)
「こおろぎ」(関根栄一作詞)など、多く書いている。



ぶらんこ

ぶらんこ ゆれて
お空が ゆれる
ゆらゆら ゆらりん
木の枝 ゆれて
わたしも ゆれる
ゆらゆら ゆらりん
ゆらゆら ゆらりん

なかよし こよし
元気な ぼくら
ゆらゆら ゆらりん
なかよく こげば
なかよく ゆれる
ゆらゆら ゆらりん
ゆらゆら ゆらりん





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