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...... 2021年03月31日 の日記 ......
■ 《軍隊》   [ NO. 2021033101-1 ] sy

【 交響曲 第100番 ト長調「軍隊」】

ハイドン,フランツ・ヨーゼフ 〔墺〕
(1732.03.31〜1809.05.31) 77歳 衰弱



ハイドンは289年前の3月31日、オーストリアの
ニーダーエースターライヒ州ローラウで 生まれた。
ハイドンの父は、最初の妻との間に12人の子どもを
もうけ、妻の死後に再婚し5人が生まれたが、
ハイドンは第2子で長男だった。
両親の先祖に音楽家はいなかったが、
ハイドンの弟2人は音楽家となっている。

家族との間に数多くの手紙を残したモーツァルトの
場合と違って、ハイドンは中年に至るまでの
書簡や記録がきわめてわずかしか保存されてない。

幼時の経歴については、1776年に彼自らが
小伝をしたためている。
「私は1732年3月の最後の日に、ライタ湖畔ブルック
近傍にある、低オーストリアのローラウで生まれました。
私の亡父の職業は車大工で、ハラッハ伯につかえていました。
父は生来大の音楽好きで、一音も楽譜が読めないのに
ハープを演奏しました。
そして私は5歳の子どもだったのに、父を真似て
父の弾く小さな単純な曲を正しく歌うことができました。
その結果、父は音楽の初歩の教育や、その他子どもの
初等教育ができるようにと、ハンブルグで学校の校長を
していた親戚に私を預ける気になったのでした。
全能なる神が、わたしに特別の才能を授けたので、
音楽をやすやすと習得でき、はやくも6歳のときには、
教会の高い合唱席でものおじせずに2、3のミサを
歌うことができましたし、またクラヴィーアや
ヴァイオリンを少しばかり弾くこともできるように
なっていました。」

29歳になった1761年から、エステルハージ家での
長い多忙な宮廷生活が始まり、5年後に宮廷楽長となった。
温厚で勤勉なハイドンは、楽員の人望を集め、
当主の信頼も厚かった。

生活は完全に保証されていたが、自由のない
窮屈な毎日を強いられていた。
しかしその間に、膨大な数にのぼる交響曲、協奏曲、
室内楽を作曲し、大作曲家としての名声を得た。

古典派時代は交響曲の開花とともに始まる。
「交響曲の父」「パパ・ハイドン」とよばれた
ハイドンの現存する作品は、104曲とされていたが、
近年の研究でさらに2曲が加えられた。
数多くのハイドンの交響曲は様々な副題がついているが、
彼自身がつけたものはきわめて少ないとされている。

ハイドンは晩年を迎えてから2回ロンドン旅行をしていて、
「第93番」から「第104番」にいたる12曲は
その時に演奏された作品である。
ハイドンをロンドンに招聘したヴァイオリニスト兼
興業師ザロモンにちなんで「ザロモン交響曲」の名で
親しまれ、「ザロモン演奏会」で演奏された。

第100番は軍隊風の打楽器が使われていて、
第2楽章のコーダは、有名なトランペットの
低音域による軍隊信号で始まる。
ザロモン演奏会での初演の新聞予告にすでに
「軍隊交響曲」という呼び方が使われていたが、
この曲を「軍隊」と名付けたのは、
ハイドン自身だろうと考えられている。

ハイドンは満3年、イギリスで過ごした日々を一生で
最も幸福な時期だと考えていたし、またイギリスを通じて
ドイツで有名になったのだとしばしば話していた。
ハイドンはイギリスのいたるところでもてはやされ、
そこで全く新しい世界を発見し、そしてその豊かな収入に
よって、煩わしい境遇から逃れることができたのだった。

24歳違いのモーツァルトとは交友があったし、
38歳違いのベートーベンとは、彼が20歳のときに会い
弟子として和声楽を教えているので、2人の交響曲には
ハイドンの影響があちこちにみられる。

        第1楽章 Adagio - Allegro
        第2楽章 Allegretto
        第3楽章 Menuet: Moderato
        第4楽章 Finale: Presto



(管弦楽)ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
(指揮) ニコラウス・アーノンクール     
            ♪ 私が聴いた音源 ♪





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