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...... 2020年12月29日 の日記 ......
■ 《 名コンビ 》   [ NO. 2020122901-1 ] v

【 歌曲「この道」】

山田耕筰 〔日〕
(1886.06.09〜1965.12.29) 79歳



山田耕筰は、明治19年6月9日に東京で生まれた。
東京音楽学校本科声楽家を卒業後、
ドイツに渡りベルリン高等音楽学校で作曲を学んだ。

29歳のときに、わが国最初の交響楽団である
東京フィルハーモニー管弦楽団を組織し、
自ら指揮者をつとめたし、近衛秀麿と共に、
NHK交響楽団の前身である日本交響楽協会も
設立し、日本のオーケストラ活動の礎となった。

31歳のときには、ニューヨークのカーネギーホールで
自作の管弦楽曲を演奏し、欧米でも名の知れる
日本人音楽家の先鞭ともなった。

日本語独得の高低やアクセントと、日本特有の
リズム感を生かした歌曲のスタイルを作り上げ、
日本楽界最大の指導者として活躍した。

歌劇「黒船」、交響曲「明治頌歌」、ピアノ曲など
多くの作品を作曲したが、特に歌曲の
「中国地方の子守唄」「待ちぼうけ」「この道」
「からたちの花」「野ばら」「赤とんぼ」など、
日本語の特徴をいかした優れた作品を
数多く残していて名品が多い。

それらの手法を用いて作曲したのが
歌劇「黒船」だが、あまり演奏されることはない。
彼の作品はどれも高い芸術性を持っていて、
世界的に広く認められている

東京オリンピックが開かれた翌年の、
昭和40年12月29日に79歳で世を去った。

作詞家の北原白秋とは親友だったが、
二人のコンビの曲は、「この道」の他に
「からたちの花」「ペチカ」「待ちぼうけ」など
数多くある。

「この道」は、北原白秋が北海道へ旅行したときに、
札幌の町の広々とした落ち着いた情緒を取り入れて
詩を作っている。
非常に快い自然なのびやかな旋律を山田耕筰が
作曲したのは、昭和2年のことだった。



この道

この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道はいつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる

北原白秋 作詞
山田耕筰 作曲





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