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...... 2019年05月31日 の日記 ......
■ 《 副題なし 》   [ NO. 2019053101-1 ] e_o

【 交響曲 102番 変ロ長調 Hob.l:102 】

ハイドン,フランツ・ヨーゼフ 〔墺〕
(1732.03.31〜1809.05.31) 77歳《 副題なし 》



ハイドンは、29歳のときにハンガリーの有力な
貴族・エステルハージ家の副楽長として
迎えられてからは、自分の楽団を手にして
作曲に邁進した。

5年後には楽長に昇進し、時を同じくして
エステルハージ侯が豪華な別荘
「エステルハーザ」を建築したので、その舞台で
上演するためのオペラや演劇も一手に引き受け、
多忙な日々を過ごした。

そして50歳を過ぎた頃には、
「エステルハーザの作曲家」ハイドンの名声は
ヨーロッパ各地に響きわたり、各国の王室や
教会から作曲依頼が殺到した。

ハイドンは28歳のときにウィーンのかつら師
ケラーの娘テレーゼに恋するが、彼女は
修道院に入ってしまい、テレーゼの姉の
マリア・アンナ・アロイジアと結婚し、家庭を持った。

3歳年上の彼女は家庭的でなく、なによりも
自分の夫が音楽史上まれにみる才能に恵まれた
作曲家であることを、理解することができなかった。

2人の間に子どもはなく、ハイドンが65歳のときに
別居し、妻はリウマチに苦しみながら、
夫に先だって71歳で世を去った。

1809年2月7日、ハイドンは2度目で
最後の遺言状を作製した。
5月10日、ナポレオン軍がハイドン家の近くまで
進攻し、12日にはウィーンが占領された。

ハイドンは家庭の幸せを味わうことができず、
197年前の5月26日夕刻、衰弱のため
昏睡状態に陥り、31日午前0時40分に息をひきとった。
6月2日に行なわれた追悼式には、
ウィーンの音楽家たちが、モーツァルトの
「レクイエム」を歌って見送った。

ハイドンの遺骸は、1932年にハイドンの
生誕200年を記念して、ときのエステルハージ侯爵の
当主によって、侯爵家の菩提寺であるベルク教会内に
立派な廟所が作られ、そこの石棺に収納された。
頭骨は、ウィーン楽友協会の博物館に
収められていたので、全遺骸が合体したのは、
1954年になってからだった。

「交響曲の父」と呼ばれているハイドンの
交響曲の作品は番号付きで呼ばれるだけでも
104曲残している。
その最後を飾る12曲の第93番から104番までは
ハイドンの2度に渡るイギリス旅行に伴い
全てロンドンで初演されている。

12曲はまとめて「ロンドン交響曲」あるいは、
ハイドンをロンドンに招いた興行師の
名前を用い、「ザロモン交響曲」と呼ばれていて、
「交響曲102番」もその一曲で1794年に作曲した。

100番台の交響曲は5曲あり、それぞれ「軍隊」
「時計」「太鼓連打」「ロンドン」という副題を
持っているが、102番だけは副題を持ってない。

しかし、内容の充実度は高く、スケルツォ風の
メヌエットや弱音器付きトランペットの使用などの
斬新な試みがみられる。

        第1楽章 Largo - Vivace
        第2楽章 Adagio
        第3楽章 Menuet - Trio: Allegro
        第4楽章 Finale: Presto



    (管弦楽)ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
    (指揮) オイゲン・ヨッフム
               ♪ 私が聴いた音源 ♪





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