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...... 2020年05月20日 の日記 ......
■ 《 クララのコンチェルト 》   [ NO. 2020052001-1 ] e_co

【 ピアノ協奏曲 イ短調 Op. 7 】

シューマン,クララ〔独〕
(1819.09.13〜1896.05.20) 76歳



クララの父のヴィークは音楽教育者で、シューマンは
2年間、彼にピアノを教わった。

クララの母は歌手だったが、クララが幼いときに離婚をし、
父はその後、20歳年下のフェフナーと再婚した。

ヴィークは、クララだけに音楽教育をし、
他の子供は放棄したといわれる。
クララは、9歳でピアニストとしてプロ・デビューをし、
天才少女としてヨーロッパ中の人気を集めていた。
19歳のときに帝室名演奏家の称号を受けている。

クララがシューマンと知り合ったのは10歳のときで、
やがて、二人は愛し合うようになったが、
ヴィークの猛反対にあい、 結婚をしたのは、
シューマンが30歳、クララが21歳のときだった。

二人は幸せな結婚生活がスタートし、子どもにも
恵まれたが 、シューマンが精神を病み、それが元で
若くして亡くなったため、16年の短い結婚生活だった。

未亡人となったクララは、夫の作品全集や日記の
出版を 進めるとともに、演奏活動も活発に続け、
シューマンの 作品の紹介に全力を尽くした。

生前にシューマンが高く評価していた14歳年下の
ブラームスの良き友人であり、良き理解者として、
彼の作品も優れた解釈をし、自分の演奏会で取り上げた。

子供と母と共に住んでいたクララに対し、ブラームスは
心からの援助の手を差しのべた。
彼はクララに恋愛に近い感情を抱いた時期もあったが、
結局、ブラームスは誰とも結婚をしなかった。

クララはピアニストとして演奏活動をしながら、
音楽院でも教えていたが、1896年3月脳卒中で倒れ、
5月20日フランクフルトで76年の生涯を閉じた。

ボンでの埋葬式にはブラームスが立ち会ったが、
彼もまもなく病に倒れ、 翌年後を追うように世を去った。

クララは作曲家としても作品を残しているが、
13歳のときに着手しその後、加筆修正が加えられ、
1835年に完成した「ピアノ協奏曲 イ短調 作品7」は、
コンチェルトシュトゥック(自由な協奏曲)で、
3つの楽章からなるが、続けて演奏される。

2楽章の「ロマンツェ」では、ピアノとチェロの二重奏と
ティンパニーのみで演奏される部分もある。

    第1楽章 Allegro Maestoso
    第2楽章 Romanze,Andante non troppo con grazia
    第3楽章 Allegro non troppo-Allegro molto

完成の年の11月9日に、クララのピアノと
メンデルスゾーンの指揮で初演された。

クララの作品も演奏も、聴き手の心の深くに入り込む
ような 温かで豊かなものだった。

10年後には、夫のシューマンも同じ調性の
「ピアノ協奏曲 イ短調 作品54」を作曲している。



(ピアノ)伊藤 恵   
(管弦楽)NHK交響楽団
(指揮) 凖・メルクル
  ♪ 私が聴いた音源 ♪





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