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...... 2018年07月14日 の日記 ......
■ 《 小学唱歌集 》   [ NO. 2018071401-1 ] v

【 螢の光 】
      
メーソン,ルーサー・ホワイティング 〔米〕
(1828.04.03〜1896.07.14) 68歳



フォスターより2年後にメーン州のターナーで
生まれたメーソンは、ほとんど独学だったが、
生涯を音楽教育に尽くし、122年前の7月14日に
バックフィールドで生涯を閉じた。

彼は、ケンタッキー州で教育に携わった後、
明治13年(1880年)に日本政府の招きにより
来日し、東京音楽学校で教鞭をとった。
わが国初期の洋楽教育の恩人である。

日本で最初にできた官製の小学校の唱歌集の
「小学唱歌集」の編者は、文部省音楽取調掛と
なっているが、実際の仕事はそこの長だった、
伊沢修二とメーソンがおこなっている。

初編(明治14年11月)第2編(明治16年3月)
第3編(明治17年3月)の3部からなり、
選曲された半分くらいのものは、外国の曲を
借りたものだった。

スコットランド民謡の「螢の光」も初編に
選ばれたもので、稲垣千頴(ちかい)の
作詞である。

その後1910年(明治43年)7月14日に
「尋常小学読本唱歌(文部省唱歌)」が刊行されたが、
これは、当時の小学校(尋常小学校)の教科書として
文部省が制定した唱歌集だった。

この本の中では、作曲者名はあげず、ただ
「文部省著作」と記されていたので
「文部省唱歌」と呼ばれるようになった。

翌年には学年別に編集された「尋常小学唱歌」の
刊行が始まり、昭和7年にはそれらを全面改訂した
「新訂尋常小学唱歌」となって、昭和16年に
小学校が国民学校に変わるまで長く授業で使われた。

唱歌という言葉は、明治5年に学制発布されたとき、
小学校の授業の1科目として「唱歌科」が
設けられたことから、「唱歌」という言葉が出来た。

それ以後、学校の音楽の授業を「唱歌」と
呼ぶようになり、授業で使われる歌曲集も
「唱歌」と呼ばれるようになった。

唱歌専門のメーソンが小学唱歌の伴奏教材として
持ち込んだ「バイエル」は、日本のピアノ教育の
基本となってしまった。



蛍の光

蛍の光 窓の雪
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
何時しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れ行く

止まるも行くも 限りとて
互(かたみ)に思う 千万(ちよろず)の
心の端を 一言に
幸(さき)くと許(ばか)り 歌ふなり

稲垣千頴 作詞 ・ スコットランド民謡





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